2018年7月。KINDサロンは、それまで約25年間営業を続けてきた、渋谷区神宮前から隣町の港区南青山へと移転した。若者文化の発信地として知られる、原宿・表参道エリアの喧騒から離れ、閑静な住宅地の南青山2丁目には、都心にしては大変珍しい広大な面積を誇る青山霊園がサロンの目の前に広がっている。特に仕切りなどもなく、春は桜の名所として知られ、近隣住民のみならず、多くの人々の散歩コースであり、都会のオアシスとして位置づけられるこの霊園には、明治以後日本近代国家成立に活躍した多くの偉人を始め、『坂の上の雲』でも登場する人物が多く眠る霊園として知られている。
本作にて、主人公として扱われた、秋山好古、真之兄弟(真之の墓は、現在は鎌倉霊園に改葬)、旅順要塞攻略の立役者であり明治を象徴する人物としても知られる乃木希典、当時の海軍大臣・山本権兵衛、日英同盟と戦後のポーツマス条約締結へ関わった名外交官・小村寿太郎、連合艦隊の参謀長・島村速雄、ヒゲが特徴的で内地から旅順前線へ28サンチ榴弾砲の投入を進言した長岡外史、児玉源太郎から叱責される場面が印象的だった伊地知幸介、そして、旅順港閉塞作戦において命を落とすこととなった広瀬武夫など、その他にも多数の軍人・文人たちがこの霊園に眠っている。小説に思い入れのある者として、今風になぞらえるならば、青山霊園は「聖地巡礼」スポットといった側面を持っており、気候の良い今の時期は、とりわけ散歩して霊園の中を見て回るには最適である。
中でも、広瀬武夫には、違った意味で思い入れを感じる。この広瀬武夫をNHKが長い歳月をかけて完成させた大作ドラマ『坂の上の雲』にて、演じた俳優の藤本隆宏さんは、中学の友人の親戚であり、私にとっては中学の先輩にあたる。藤本さんは役者になる前、水泳の選手としてソウルオリンピックとバルセロナオリンピックに出場されているが、1992年のバルセロナオリンピックが開催された同じ夏に、第74回全国夏の甲子園大会に出場し、優勝したメンバーの一人が私の兄であった(お互い面識はないと思うが、なぜか高校も西日本短大付といって、地元宗像市からはスポーツ推薦以外に通う人はほぼいないと思われるほど、距離的にも離れたところにある)。そのため、その後に発行された地域発行のコミュニティ誌『日の里』に、二人同時に取り上げて頂いたことを当時小学4年生であった私は記憶しており、それ以来、藤本隆宏さんの名は長く記憶されることとなった。余談ではあるが、この92年の夏が野球に一心をかけた兄にとっての『坂の上の雲』であり、司馬氏が『坂の上の雲』というタイトルに込めた隠喩にも通ずる。それほど、学生野球にとっての甲子園とは、高校から大学、そして就職へと続くキャリア形成において大きな影響を及ぼす一大イベントであり、光と影の両面を持つというのが私の高校野球観でもある。
兄とは対照的に、水泳選手を引退した後、劇団四季へと進み、着実に俳優としてのキャリアを積み重ねてきた藤本さんが、再び全国的にその名を知らしめることになったのが、この広瀬武夫役ではないだろうか。制作実現不可能とされていた映像化が実現しただけでも驚きであった本作であるが、広瀬武夫役を藤本さんが演じるといったことも、私にとっては大きな驚きであり、ドラマの新たな楽しみとなった―。